織田信長(1568年)はポルトガル宣教師に、薬草を栽培するための土地を伊吹山で与えました。
その広さ50町歩、今でいうと東京ドーム10個分に当たります。その薬草園のあった場所がどこであるか不明ですが、宣教師がヨーロッパから薬草約3,000種類を移植したとされています。
この記録は江戸時代に出版された通俗書にみられますが、確かな歴史書ではないためその真偽はわかりません。
ただ当時薬草とともに紛れて入って来た雑草類が伊吹山に残っていることから、織田信長と薬草園は事実だとされています。
その証拠なのが、雑草のキバナノレンリソウ、イブキノエンドウ、イブキカモジグサなのです。
これらの3種類の植物を見つけて、織田信長時代を想像してみてください。
その後も、伊吹山の周辺部では地元の薬草を用いた生活が営まれてきました。
伊吹百草や伊吹もぐさは最も古い薬草利用と言われています。
伊吹山の岐阜県側に位置する春日村は、伊吹山の奥深い場所にあり、薬草の豊富さもあって、昔から薬草を採取しては峠を越えて関ヶ原や柏原に出かけ、米や日常品との交換が行われてきました。
薬草の豊富なことが薬草を利用しての生活に結び付いていったのです。
明治後期から昭和初期のかけての薬草売買については春日村の薬草仲買人であった小寺甚五郎の記録に見ることができます。
イブキカモジグサ
キバナノレンリソウ
イブキノエンドウ
聞き取り調査
薬草の乾燥風景
8月の始め土用の頃に古屋から笹又を経て伊吹山に登るときなど、いつも村人たちの薬草採取に遭遇しました。
採取した薬草は天日でよく乾燥し刻み「伊吹百草」として健康の為の茶剤や浴剤として利用されて来ました。
呼び方が「伊吹百草」と同じであっても、利用は茶剤か浴剤と異なりますから一般の方は注意が必要です。
今日では、このような歴史のある「伊吹薬草」が基盤となり、各種の健康の為の産品が開発され地場産業に貢献しています。
健康茶剤としての「伊吹薬草」の配合内容は役場の職員による聞取り調査でも明らかになりましたが、家毎にその処方が異なると言うほど多様です。
特に決まりがなくとも「ゲンノショウコ、ドクダミ、トウキ」の三種類が配合の基本となっています。
引用元:「イー薬草・ドット・コム」(http://www.e-yakusou.com/)